「多様性」の横暴
人間は一人一人違う脳味噌を持っているのだから、付帯する情報をもとに勝手なラベリングをするのではなく、個人それぞれの特性に向き合っていこう。
この姿勢こそ、「多様性」推進のあるべき姿なのではないか、と自分は思う。
多様性とかダイバーシティという言葉は、ここ数年各所でトレンドワードと化しているように感じられる。しかし自分は最近、この動きに違和感を感じるようになったのだ。
何と言えばいいのだろう。ヒトとしての異常や欠陥でさえも、「多様性」の枠に押し込めてしまおうとする流れがあるように思えるのだ。
個人的に、引け目を感じた事例を紹介しよう。
高校の生物の授業で、おそらく遺伝について習ったと思われる。また、遺伝を説明する際に用いられる事例として、色覚異常はおそらく定番だっただろう。
この分野についてだが、割と最近だろうか。遺伝の発現のしやすさを示す「優性」「劣性」が、「顕性」「潜性」に言い換えられるようになったそうだ。
んー、確かに、自分も習いたての頃は勘違いしていた。優性は良くて、劣性は悪いのだと思っていた。この手の勘違いを防ごうと思えば、この言い換えは正しい改変のように思える。おかしいと思ったのはこちらではない。
何がおかしいと感じたかって、色覚異常の方だ。かつては「色盲」と呼ばれ、現在では色覚異常と呼ばれるはずの症状。この表現も、新たな言い換えが生まれたそうで。
「色覚多様性」
…アホか?
多様性という概念が言いたいのって、こういうことではないよな?…と、自分は思っていたんだが?
もはやこれは一人一人の個性を尊重するための「多様性」を飛躍して、
「異常とか欠陥とか障害という考えは捨てちゃおう!良いも悪いもない!あれもこれもみ〜んな、多・様・性!!☆☆」
の境地に、至っているように思える。
…これは、良いのだろうか?
自分の意見としては、多様性で括ろうにも限度をわきまえるべきだと感じる。
上記の例ならまだ何ともない。だが、もしこのまま「多様性」の横暴が進めば、
善悪の基準が、世の秩序が、輪郭を失うのではないだろうか。
具体的にどう崩れていくかは、自分に想像できる範疇にない。ただ、何の罪もない一般人の安全性・快適性が、多様性という凶器によって蝕まれる姿が、脳内でモヤのように薄っすらと想像できるのだ。
こんな風に思うのは、自分だけだろうか。
あなたはどう思いますか、「多様性」という言葉を。